断片的なものの社会学(読書感想文もどき)
本はそこそこ読む方だけど自分で選ぶのは小説が多い。本屋で手に取る本は大体作家が決まってる。
今回自分じゃ買わないジャンルだな〜と思いながら貸してもらったその本を開いた。
社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ(帯表紙より)
著者の考え(分析)も交えながらいろんな人の話が出てくるんだけどすごくリアルで(当たり前)かなしかった。
かなしいという表現が的確かどうかはおいといて、例えばどんなに暗〜い重〜い小説でも(私が読んできたもので出来上がってる世界はまだまだ狭いが)、筆者が意図してたのかどうかはわからないけどカンダタが見つけた蜘蛛の糸みたいな希望が垣間見れる。
けどこの本で描かれる話にはそれが見えない。
それはもう存在する誰かの人生だからそこに自身の想像した希望をつけるなんてエゴにもほどがある。
というよりこっちが勝手にかなしいと捉えたエピソードが当事者にとってかなしいとは限らない。
他人の人生に介入など最初からできない。とはわかっていても現実の生活では少なからず誰かに干渉してされて生きている。
生きづらくするのはこういう終わりのない考えなのかもしれないけど、自分とはかけ離れてポップな考えで生きてる人、めちゃめちゃ合理的に生きてる人、みんな誰かであって自分じゃないのに、話を聞くだけで少しの時間その人になる。
私はどちらかというと考え過ぎちゃう方だし、他人に感情移入しやすい。涙腺も弱い。
したがってザ・ノンフィクションみたいなドキュメンタリー番組が苦手。
でも好奇心はある。「知らない方がしあわせってこともあるよ」なんて言われても納得できない。
結局恋人の昔話を当人から知人から色々聞いて落ち込むわけだけど。(そんな昔話引っ張り出してきて何してんだろ、と懲りない私に対して)
上で言ったような番組も苦手と言いつつ見ちゃう。やっぱり落ち込む。
でも見てよかったなとも思う。
たぶん「知らない」ということが自分にとっていちばんかなしいことだから。
この本を読んだあとにも改めてそう思った。
それは誰かにも知ってもらいたい(ここで長いこと喋ってる分嘘っぽいが)とかじゃなくて、知らないなら知らないで全然気にならない。誰かがそうであるならそれでいい。
実際著者が出会う人たちがいる関西にも沖縄にも修学旅行くらいでしか行ったことないし、この先行く予定も特にはない。私が出逢うべくして出逢う人間はいないとも思う。
それでも小説のつくりものの登場人物じゃない、今実際にいる(もしくはいた)人間の時間を共有できたということは知らないことをまたひとつ減らしたことになる。
それは私がかなしいと思うことが減ったということ。
これはただの自己満足。
(ここに至るまでに本に描かれる生活を送った人、本にまとめた人、それを貸してくれた人、もっと細かく携わったいろんな人によって得た自己満足。)
事実は小説よりも奇なり
なんて昔の人が言ったみたいだけどその通りだ。
どの小説よりもうそっぽくて真実ばかりの話がきょうも誰かのもとにふりかかってるんだな。
そしてそれを私はまだ知らない。